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哲学

【やさしい哲学】
第4弾
世界は苦しみで満ちている
『ショーペンハウアー』

みなさんこんにちは!
今回は、【やさしい哲学】シリーズ第4弾です!
ショーペンハウアーの哲学は、これまで紹介した哲学者よりも比較的身近に感じるのではないかと思います。最終的には、仏教思想へと繋がってくるという興味深い点もあるので是非最後までご覧ください。
では早速始めていきましょう!

生の哲学『ショーペンハウアー』

グダニスク(ポーランド・リトアニア共和国)出身 主著:『意志と表象としての世界』

年表

この世は生きるに値するのか

ショーペンハウアーが生きた時代は、”世界”を知る方法が、カントやヘーゲルのように「哲学」で捉えることから、産業革命などが起こったことにより「科学」で理解することへと移り変わりました。そのため哲学者は、哲学固有の問題とは何かを考えていく必要がありました。そこで、ショーペンハウアーは見出しの問いを投げかけ、それにNOを突きつけたのです。ヘーゲルの進歩史観に対して、”歴史を動かしているのは人間の盲目的な生への「意志」であり、誰も絶対精神を求めていない。だから歴史とは、争いばかりで世の中は楽しいものではない。”と批判しました。それによってペシミズム(悲観主義)論争が勃発し、19世紀後半のドイツを席巻しました。

新しい思想体系

①無意識の次元の発見

無意識とは、ショーペンハウアーやニーチェの言葉ではありません。彼らは、もっぱら「意志」もしくは「生」という言葉を使っていました。私たちが普段体を動かす時、その動きは自然の物理法則に従っていて、科学的に因果関係を特定できます。しかし同時に、私たちはその身体を動かす無意識の力を感じていて、それを「意志」と呼んでいます。そして、この「身体」という概念を哲学に初めて導入した彼の思想を「生の哲学」と呼びます。以前紹介したフロイトは、彼らに大きな影響を受け、精神分析を通して明確に無意識というものを定義しました。

②神の不在

近代の西洋哲学や科学は、世界の仕組みを説明するのに神を持ち出すことはありません。神がいないということは、人間や世界の善性を保証する存在も、人々を最終的に救済する存在もいないということになります。つまり、神という他力による救済を禁じて、自力の道を探るという方法を取りました。

世界は私の表象である

表象とは、私たちの意識にもたらされるあらゆる事柄を指します。つまり、「世界とは私の意識に映るものでしかない」と言い換えることができます。これは、独我論の考え方ー真に存在するのは私だけであり、私以外の全世界は私の意識の中にのみ存在するに過ぎないーのように見えます。ここで不思議なことに気付くのではないでしょうか。独我論は、定義上、他者は存在しないはずですが、独我論についてお互いに語り合うことができます。要は、唯一の世界の中に独我論的な「私」が無数に共存しているということです。これを解き明かすための手掛かりとして挙げられたのが、独我論的な唯一無二の「私」と、世界の中の諸事物の1つでしかない「私」が出会う場である「身体」です。万人共通の唯一の認識主観が唯一の世界を成り立たせ、それが各身体に宿るという考え方です。しかし、個体としての私に固執すると、エゴイズムに陥りやすいという側面もあります。

同情(共苦)

ショーペンハウアーは、身体を自然におけるあらゆる現象の本質への1つの鍵として用いることを提案しています。私たちの身体以外の客観、表象としてのみ私たちの意識に与えられている客観全てを、身体のアナロジー(類似性)によって判定しようとしました。私たちの身体と同様に、客観も表象に現れているものを取り去ったときに残るものは「意志」と同じものではないか、ということです。つまり、身体を介して自然のなかに意志を見ることで、人間を含めた世界のあらゆる諸事物を、一つの意志の表れと理解しようとしました。このような意志の形而上学を正当化するために「同情」という現象を利用しています。(ドイツ語でミットライト、専門的に共苦と訳されています。)そして、この同情に基づく行為のみが道徳的価値を持つとしています。彼の言う道徳的行為とは、他者の苦しみを認識し、それを取り除こうとする行為のことを指します。そして、この「他者の苦しみの認識」が同情であり、他者のうちに自分と同一の意思を見て取ることです。また、あらゆる愛とは同情であり、同情はキリスト教のアガペー(愛)であり、偉大な諸宗教は同じ心理を共有していると主張しています。

意志の否定

そもそもこの世の生は苦しみの連続でしかない。それはこの世界が意志の表れであることからの必然的帰結である、とショーペンハウアーは見ています。意志は絶えず何かを求めるものであるが、何かを求めると言うことは、何かが欠けていると言うことであり、欠乏は1つの苦しみです。私たちの欲望には際限がありません。欲しいものが手に入らなければ、それもまた苦しみです。結局は、満たされぬ渇きに突き動かされて、最後には死ぬだけです。だから、この世は生きるに値するものではない、とショーペンハウアーは結論づけました。しかし、そのような世界からの救済として、「意志の否定」ないし「諦念」と言う道が存在すると彼は述べています。この世が苦しみに満ちていることをはっきりと認識することで、自ずとこの世のものを何も欲さなくなると言うことです。このような境地に達した者は、内的な喜悦と真の天上の安寧に満ちた状態へと至るとしています。これは、一種の宗教的境地です。 『意志と表象としての世界』には、 意志を完全廃棄した後に残るものは、なお意志に満たされているすべての者にとっては、もちろん無である。しかしまた逆に、意志を転換し否定した者にとっては、これほどリアルな私たちのこの世界が、その太陽や銀河の全てともどもー無なのである。 そして注釈には、 これこそまさしく仏教徒たちの般若波羅蜜多、「あらゆる認識の彼岸」である。つまり、主観も客観も存在しない地点である。 と書かれています。このように、ショーペンハウアーの哲学は、インド哲学や仏教とのつながりにも言及することができます。

ということで、いかがでしたでしょうか。
最後までお読みいただきありがとうございました!
もし分かりにくい点やここちょっと違うよという点などありましたら、コメントに書いていただけると今後の参考になりますのでよろしくお願いします。
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次回予告
【やさしい美術史】第5弾 『コンセプチュアル・アート』
お楽しみに!

参考文献

『哲学と宗教全史』(出口治明、ダイヤモンド社)

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